鳥山明先生の名作『ドラゴンボール』
「冒険」「夢」「バトル」「友情」を描いた長編マンガ。
このマンガから影響を受けた人も多いはず。
僕もその一人です。
僕、大場祐輔は、東京ディズニーランドから721日かけて歩いて日本を一周した経験があります。著書はこちら→『信じた道がいつか本当の道になるようにーガチで徒歩日本一周721日の旅ー』彩雲出版
一人旅やアウトドアの経験があったわけでもなく、「日本一周」に憧れたこともありません。
僕はこのマンガの影響で徒歩日本一周の旅に出ました。
『ドラゴンボール』があるからこそ今があります。
僕は『ドラゴンボール』の影響で願いが叶いました。
「筋斗雲を使っちゃいかん!」の衝撃
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桃白白に殺されたウパの父ちゃんを生きかえらせる為に、最後の一個のドランゴンボールの場所を占いババに占ってもらうために宮殿で試合をするシーンがあります。
試合が終わってドラゴンボールが7個集まり、神龍を呼び出してウパの父ちゃんを生き返らせました。
3年後の天下一武道会を目指して修行の旅に出ようとした悟空が筋斗雲を呼ぼうとした時に亀仙人が「こりゃ待て!」と待ったをかけます。
「筋斗雲を使っちゃいかん!歩くのじゃ!走るのじゃ!泳ぐのじゃ!それも修行じゃろが!」
この時、僕は小学生でしたが、亀仙人のドSっぷりに「マジか…」と衝撃を受けた記憶があります(笑)。
当時の『ドラゴンボール』の筋斗雲は『ドラえもん』でいうところの「タケコプター」や「どこでもドア」と並ぶぐらいストーリーに必要不可欠なマストアイテムでもあり、当時の僕ら子供達にとってはまさに夢のアイテム的存在でもあったわけで、それを使っちゃいけないという衝撃は子供ながらに「えぐい」の一言に尽きました。
その後、師匠の意地で負けられないと思った亀仙人たちも家まで走って帰ります。なぜかブルマも一緒に(笑)。
3年後、天下一武道会の会場に悟空がなかなか現れません。出場の受付まであと5分をきったところで悟空が走って現れます。亀仙人の「ヒヤヒヤさせおって…。筋斗雲はどうしたんじゃ!」の質問に悟空はこう答えます。
「だって、じいちゃんが修行だからつかうなっていっただろ?」
この3年間、悟空は亀仙人に言われたことをバカ正直に守っていました。
しかも地球のまるで反対側のヤッホイから筋斗雲を使わずに武道会場までやってきたことでみんなを驚かせます。
小学生の頃の僕は「悟空、マジかっけえ」と思いました。
亀仙流ウォーキング
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今振り返ると、亀仙人のすごいところは悟空やクリリンに修行で「武術」を一つも教えていないところです。
修行では20キロの亀の甲羅を背負って、牛乳配達や畑の耕しや工事の手伝いをしていました。
この修行で強くなった悟空とクリリンは天下一武道会で大活躍をします。
僕も徒歩日本一周中に20キロの重さのバックパックを背負って歩いていましたが「これは亀仙流ウォーキングか?」と思ったことがあります(笑)。
徒歩日本一周の動機に『ドラゴンボール』の影響があったことは確かです。
新聞で「自転車で日本一周」した人の記事を読んでも何も思いませんでしたが、「徒歩」だったらやってみたいと思えたのは、悟空の「筋斗雲を使わないカッコよさ」だったのかもしれません。
のちに悟空は瞬間移動ができるようになります(笑)。
名曲『ロマンチックあげるよ』
子供の頃に漫画と一緒にアニメの『ドランゴンボール』も毎週観ていましたが、エンディングの『ロマンチックあげるよ』は名曲です。
毎週アニメを観終わるたびに聴いていましたが、大人になればなるほど胸に歌詞が突き刺さります。
僕は大学を卒業してから徒歩日本一周の旅に出たのですが、出発の日が近づくにつれて、不安になったことがありました。
「本当にこれでいいのか?」
「他に道があったんじゃないか?」
「歩きで日本一周なんかできるのか?」
周りの同級生が就職していく中で、自分は旅に出ることを決めたものの「自分の選択は本当にこれで正しかったのか?」と悩みました。
その時に、小学校の頃に聴いていた『ドラゴンボール』のカセットテープを見つけ『ロマンチックあげるよ』を聴いたら不思議と涙が出ました。
「泣けるんですけど!」
今までさんざん聴いてきた曲なのに「なんだこの名曲は」と思い、何回も聴いてしまいました。
子供の頃の当たり前だった純粋で素直な気持ちが、大人になった自分の胸に突き刺さる気分でした。
この曲は子供が作ったわけではなく、「大人が作った」と思った瞬間、勇気付けられました。
サイヤ人は働かなくていい
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徒歩日本一周が終わった後も『ドラゴンボール』の影響力はまだまだ続きます(笑)。
もともと僕は本を出版したくて「徒歩日本一周の旅」をしました。
旅が終わった後、旅の記録を原稿にして出版社から本を出そうと奮闘していた時のことでした。当時、フリーターをしながら出版を目指していました。
出版社が決まるまで5年かかっています。
その間、周りからも色々なことを言われました。
「もう出版できねーから辞めとけよ」
「いつまでも夢見てんじゃねーよ」
「社会人なんだからちゃんと働け」
その時、悟空とベジータを見ていて思ったことがあります。
「サイヤ人は働かなくていい」
悟空の妻のチチ、ベジータの妻のブルマが「働いてほしい」と願う中、悟空もベジータはまったくと言っていいほど仕事をしません。
強くなることだけをひたすら求めて生きています。
僕はサイヤ人ではありませんが「本を出版することだけをひたすら考えて生きよう」と思いました。
特にベジータに関しては、どんなに強くなっても悟空には勝てません。それでも悟空を目標にひたすら強くなろうと修行を続ける姿は男として単純にかっこいいです。
「出版できないかもしれないけど、それでもやり続けよう」と思いました。
僕が本を出版できたのは超エリートのベジータ様のおかげです(笑)。
最後に「鳥山明先生の影響力」
「ドラゴンボール」はストーリーも素晴らしいですが、鳥山明先生の色使いのセンスも含めて絵がズバ抜けてうまいです。
小学生の頃、鳥山明先生が描いたポスターを見て、見惚れてしまうことも多く、「どうしたらこんなにすごい絵が描けるんだろう?』と疑問に思って自分でも真似して描いてみたり、「将来、漫画家になりたい」と思ったこともありました。
当時、『幽遊白書』と『珍遊記』を足して2で割ったパクリ漫画を夢中で描いていたことがあります(笑)。
結局、絵を描く才能がないことに気がついて「漫画家」になることを簡単に諦めてしまったわけですが、「作品」というものを生まれて初めて意識したのはこの頃です。
「絵は無理だけど、活字の本なら出せるかもしれない」
本を出版したいと思ったのも鳥山明先生の影響が大きいです。
日本一周した人から影響を受けて、日本一周の旅に出ることはよくある話ですが、僕の場合は、色々なものから断片的に受けた影響が自分の中で合わさって「徒歩日本一周の旅」の動機につながったという感じでした。
そういった意味でも僕の人生のバイブルは『ドラゴンボール』です。
大場祐輔 1981年埼玉県生まれ。
大学在学中にプロレスラーの大仁田厚が「徒歩日本一周」に挑戦したことに衝撃を受ける。 卒業後すぐに「徒歩日本一周」に挑戦。
2003年、東京ディズニーランドからスタートし、毎日平均40キロの距離を歩き続ける。
旅先でお金が無くなれば、住み込みでアルバイトをして食いつなぎ、スタートから721日目の2005年3月22日、東京ディズニーランドにゴール。 徒歩日本一周をやり遂げた。
同年11月より日本一周記の書籍化のために奔走。 出版社に原稿の持ち込みを開始。
それから5年後、出版が実現。 「信じた道がいつか本当の道になるように―ガチで徒歩日本一周721日の旅―(彩雲出版)」←クリックするとAmazonに飛びます
。「俺が断念したことを彼はやりとげた―大仁田厚さん推薦」